秘め事の一夜  ― 4 ―






		 微かな雨音に目を覚ます。見れば、いつの間にか雨が降っていた。

		 隣を見れば、昨夜飽きることなく抱き続けた体が静かに横たわっ
		ている。その伏せられた睫に、彼は未だ夢の中だと知る。

		 長い睫が影を落とし、普段は大人びた印象を残す面を幼く見せた。

		 涙の痕が薄く残る目元、昨夜の情事の痕を色濃く残す白い肌。薄
		く開かれた口から洩れる呼気さえも甘く感じられる。

		 昨夜は、欲望のまま彼の体を貪るように抱いた。何度も、何度も。
		途中で彼が気を失っていなければ、それこそ一晩中でも抱いていた
		だろう。

		 自分にもこんな感情があったのだと、初めて知った。

		 彼 ――― 美堂 蛮と言う存在の前では、私もただの人間に過
		ぎないのだと思い知らされる。

		 彼に出逢わなければ多分きっと一生抱くことのなかったであろう
		感情も、彼故であるだけでこれほどに甘美なものになることを驚き
		と共に知る。

		 抗い難く、だが甘美で、陶酔せずにはいられない。

		 暫し魅せられたようにそのあどけなさの残る寝顔に見入る。頬に
		かかった髪を払ってやれば、微かに身動ぎし、彼はゆっくりと目を
		覚ました。

		「………。」

		「おはようございます。美堂くん。」

		 笑みと共に声を掛ければ、緩慢な動作で彼が私を見る。そうして
		私を認識すると、その美しい面が不快の念も露に歪んだ。

		「赤屍……。」

		「気分はいかがですか?」

		「最悪!」

		 吐き捨てるように一言呟いた彼は、気だるげにベッドから降りた。

		「そうですか。それは残念ですね。昨夜はあなたに喜んでいただこ
		うと、最大限の努力をしたのですが。」

		 ひどく心外だと言った意味を言外に含ませ、顔色一つ変えずそう
		言えば、彼は頬を薄っすらと染め私を睨み付けた。

		「うっせーな!んなこた俺の知ったこっちゃねぇ!それよりシャワー
		貸せ!シャワー!」

		 つれない彼の言葉に、大袈裟に肩を竦めて見せる。

		 それに彼は、更にきつい視線を私に向けた。

		「バスルームはそちらの扉です。」

		 彼の眼差しをさらりと受け止めて、バスルームの位置を教えてや
		る。と、彼は一瞬言われたほうに視線を向けた。それからもう一度
		私を睨みつけると、無言でバスルームへと姿を消した。

		 彼の姿が視界から消えてからも暫しの間、私は視線をそちらに向
		けていた。

		 しばらくすると、バスルームから水音がし始めた。そこでようや
		く視線を外し、ベッドを降りる。

		「さて、美堂くんのためにコーヒーでも用意しましょうか。」

		 一人ごち、コーヒーと、そして軽い朝食の準備を始めた。

		 部屋にコーヒー特有の芳醇な香が立ち始めた頃、彼が雫の滴る髪
		をタオルで拭きながら現れた。

		シャワーを浴びさっぱりしたためか、先よりは表情が柔らかくなっ
		ている彼に声を掛ける。

		「ああ、美堂くん。コーヒーと、簡単ですが朝食の用意が出来てい
		ますよ。いかがですか?」

		 私の言葉に、テーブルに並んだものを見る。そして意外そうな表
		情をした。

		「……テメーが作ったのか?」

		「ええ。そんなに意外ですか?」

		 まじまじと私の顔を見ながら、それでも彼は椅子に腰を下ろした。

		「ああ。こんなもん作るようにゃ、見えねぇぜ。」

		 フォークを手に取ると、目の前のオムレツを突付きだす。

		 あまり行儀がいいとは言い難い行為だが、彼がすると可愛らしさ
		が先に立って、思わず笑みが浮かぶ。

		「なんだよ?」

		 私の笑みを見咎めて、彼が口を尖らせる。

		「いえ。」

		 一瞬怪訝そうな目を向けたが、私の笑みなどいつものことと、納
		得したのか、彼はオムレツを突付きながら頬杖をついた。

		「しっかし、テメーでも料理なんてすんだな。」

		「しては可笑しいですか?」

		「んー…ってか、食わねぇのかと思ってたからよ。もの食わなくて
		も平気そうじゃん?」

		「そう思われているとは心外ですね。私も普通の人間ですから、食
		事くらいしますよ。」

		 表情を変えずに答えを返せば、彼は片方の眉を上げた。

		「テメーが普通の人間だぁ?すっげ、眉唾くせー。」

		 彼の言葉に苦笑を返す。

		 どうやら、化け物か何かのように思われているらしい。

		「ま、んなこたどーでもいーや。これ、食っていいんだろ?」

		「ええ。」

		 私の答えとほぼ同時に、彼は食べ始めた。

		 無言ではあるがその手が止まらないところを見ると、どうやら彼
		の口に合ったようだ。

		 暫し黙ってそんな彼を見つめる。

		「……毒でも入っているのでは、とは思わないんですか?」

		 不意に洩らした言葉に、彼は手を止めず答えた。

		「別に。テメーはそーいう卑怯だけはしねぇからな。」

		「……そう思っていただけているとは光栄ですね。」

		 彼の答えに笑みを浮かべる。

		 卑怯者ではないと、それは彼の最上級の賛辞だからだ。

		「……褒めてんじゃねぇからな?」

		「ええ。」

		 釘を刺すように言われた言葉に笑いかける。それに、彼は厭きれ
		たように肩を竦めた。

		「……食わねぇのかよ?」

		「いただきますよ。折角こうしてあなたと食事が出来るのですから
		ね。」

		 くすりと笑みを零して、フォークを手に取り食べ始める。

		 暫し沈黙が流れた。

		「こうしていると夫婦のようですね。」

		「ブッ!!」

		 ぽつりと洩らした私の言葉に、彼は飲んでいたコーヒーを吹き出
		した。

		「……美堂くん。言ってはなんですが、あまり行儀がいいとは言え
		ませんよ。」

		 眉を顰め、大仰に肩を竦めて見せた私に、彼が口元を拭いながら
		叫んだ。

		「き、気色悪いこと言ってんじゃねぇ!!」

		「いけませんでしたか?」

		「そーいう問題じゃねぇ!…ったく、どいつもこいつも。」

		 理解できないとばかりに大きな溜め息をつく。

		 それに苦笑する。

		 彼がどれだけ周りの人間に影響を与えているか知らない、いや、
		理解できないのは、きっと彼だけだろう。

		 彼と出逢った人間は、大なり小なり彼に魅せられている。それは
		私とて例外ではない。

		 しかし彼にとってそのようなこと、どうでもいいことなのかさし
		て興味はないようだ。

		 小さく溜め息をついて、コーヒーを啜る。

		 二人の上に再び沈黙が流れた。

		「……雨、降ってんのか?」

		 食事を終えた彼がコーヒーに口をつけながら、そう呟いた。

		 独り言だったのか、彼は私の言葉を待つでもなくカップを置くと、
		腰を上げ窓辺へと移動した。

		 降り出した雨はいよいよ勢いを増している。

		 それをぼんやりと見ていた彼が、ふと何かに気がついたように下
		を見た。

		「……?あのタクシー……。」

		「私たちの乗ってきたタクシーですよ。」

		 ぽつりと洩れた言葉に答えを返す。

		 彼は私の返事に振り返らず、窓越しにそれを凝視した。何かに気
		づいたその瞳が、大きく見開かれる。

		「あ…かばねっ!テメーっ!?」

		 怒りも露に私を振り返った彼に笑いかける。

		「何か?」

		「何かじゃねぇ!テメーなんだってあんなことしやがった!?」

		 割れるのではと思われるほどの力でもって、彼は激しく窓ガラス
		を叩いた。

		「関係ねぇだろうが!なんだってあんな……っっ!」

		 たかがタクシードライバー一人を殺めたくらいのことで、本気で
		激昂する彼に笑みが深まる。私の反応に、彼の瞳が鋭さを増した。

		 燃えるように激しい色に目を奪われる。

		「あなたを見たからですよ。」

		「あ!?」

		「あなたの快楽に震える姿を見たから、です。ご納得いただけまし
		たか?」

		 深い笑みと共に返した言葉に、彼は絶句した。

		 私を睨みつけたまま、唇を噛み締めて拳を震わせている。

		「……んなことで……。」

		 搾り出すように洩れた言葉に首を振る。

		「そんなことではありませんよ。少なくとも私にとっては、ね。美
		堂くん。」

		「もとはといや、テメーが……!」

		「銀次くんも例外ではありませんよ?」

		 言いかけた彼の言葉を遮るように口を挿む。

		「……あ?」

		「銀次くんも例外ではないと言ったのです。いえ、むしろ真っ先に
		殺してさしあげなければならない人物ですね、彼は。」

		 鋭さを増した彼の瞳を正面から受け止めて、彼のそのきつい瞳の
		色に陶然と見入る。紫紺の瞳が燃えるように色を増し、得も言われ
		ぬほど美しい。

		「……テメーにゃ無理だ。銀次はテメーにゃ殺(や)られねぇよ。」

		 不意に、薄い笑みと共に確信に満ちた言葉が零れ落ちた。

		「そうですか。なるほど。銀次くんを信じているという訳ですね。」

		「別に。そんなんじゃねぇ。」

		 私の言葉を否定すると、彼はそのまま玄関へと歩き出した。

		「傘をお貸ししましょうか?」

		「いらねぇよ。テメーに借りなんざ作りたかねぇからな。濡れて帰
		る。」

		 背を向けたままひらひらと手を振った彼に、わざとらしく溜め息
		をつく。

		「残念ですね。それを口実にまたお会いすることが出来ると思った
		のですが。」

		「んな口実なくたって現れる奴が何言ってんだ。俺はテメーになん
		ざ会いたかねぇんだよ。できりゃ、二度と俺の前に現れないでもら
		いたいもんだぜ。」

		 私を一瞥した彼は、吐き捨てるようにそう言った。

		「つれない方ですねぇ。」

		「言ってろ!」

		 そう一言洩らすと、後はもう振り返らずに部屋を出て行く。それ
		を苦笑したまま見送って。

		「本当につれない人だ。まあ、そこがまたいいんですが、ね。」

		 立ち上がり窓の外を見れば、マンションから走り去る彼の姿が見
		えた。

		「昨夜のことは、銀次くんには秘密にしておいてさしあげますよ。
		美堂くん。これで貸し一つ、ですね。」

		 走り去る彼の背を見ながら、私は薄く笑みを浮かべた。






	

		 THE END










		 いやはや、なんと言いましょうか、無駄に長いです;
		 書き上げたのは2002年か2003年。3年以上
		 前ですか、そうですか。ははは(乾いた笑い)
		 しかし、以前の文章は、装飾が多くていかんですね;
		 読み返すと照れます(苦笑)
		 Hシーンはともかく、翌日の朝のやりとりが気に入っ
		 てますv
		 何はともあれ、ここまでお付き合いくださった皆様、
		 お疲れまでした(^^;)