僕と君との境界線 パソコンの画面とにらめっこを始めてから、そろそろ一時間が経とうとしていた。 明日の授業プリントの作成はちっとも進んでいない。動名詞なんて決まり事さえ守れ ばすぐにマスターできるはずだけど、それは僕が英国人だから言える事だろうか。そ もそも動名詞がどうの、なんて意識して使ったことはないけれど。 新しい単元に入る時、僕は必ずプリントをつくる。要点と用法、例を載せた簡単な ものだが、試験前にそのプリントで復習をしてくれる生徒は多い。熱心に勉強してく れる人なんかは、「ネギ先生のプリントは簡潔で分かりやすくて、とっても為にな るんです!」と笑顔で教えてくれた。教師としては嬉しい限りで、だから僕はかなり 気合を入れてプリントをつくる。普段なら一週間前に出来あがっているそれを今作成 しているのは、魔法関係で出張に出向いていたからだった。 魔法世界で起きた一連の事件を収拾させた後、タカミチやフェイトらと同じように、 僕にも魔法関係の仕事が入るようになっていた。幼い体で、という心配は周囲からさ れたものの、そうした仕事を引き受けると押し通したのは僕だった。なんだか動いて いないと、これまで得てきた力の全てを忘れてしまいそうな、不安に襲われて。 「ネギ君? 頭濡れたままだよ。ちゃんと拭かなきゃ駄目じゃないか」 「ん……」 風呂から上がったらしいフェイトが、机に向かってぱちぱちとパソコンを打ち続け る僕に眉を潜めた。不本意のまま始まった同居生活だが、さすがに何カ月と一緒に過 ごしていると、彼が傍にいる事に違和感を覚えなくなってしまった。寝室は互いに別 とはいえ、ごくごくたまにフェイトが入り込んでくる事があるから、それすら日常に なりそうで少し怖い。 そっけなく答えた僕にフェイトは溜息を吐くと、「しょうがないね」と言ってこち らに近寄った。直後、ばさりと何か柔らかいものを頭から被せられて、思わず手を止 める。それがバスタオルであることはすぐに理解できて、思わず彼を見上げた。 「自分でできるけど」 「そう言っていつも拭かないじゃないか。駄目だよ、ちゃんと拭かないと。風邪をひ いてしまう」 「え〜……? 僕、これでも体力には自信があるよ?」 「そういう問題じゃなくてね……」 口をとがらせると、フェイトは脱力したように肩を落とした。 「とりあえず、仕事が残ってるんだろう? 頭、拭いていてあげるから、ネギ君は作 業に集中してて」 「ん、ありがと」 優しい手つきで、タオル越しにフェイトの手が頭を拭いていく。髪の一束一束から 丁寧に水気を取っていく様は、なんとなくどこかの貴族の執事のような気がして、思 わず顔を顰めた。フェイトが執事だなんてシャレにならない。今のところ、朝食はい つもフェイトが用意してくれていて、僕がやろうと思った家事も先回りしてやられて いる事が大半だ。フェイトには授業のサポートに入ってもらうこともあるし、なんだ かんだ、僕はフェイトに頼り切っている。 けれどそれを認めてしまうのは癪で、キーボードを打つ手に力を込めた。 (えーっと、合わせて不定詞の説明もして……) 集中しよう、と顔を画面に近付けた時、くい、と軽く髪を引っ張られた。フェイト の手は変わらず優しい手つきで、耳付近の髪の毛を触っている。 「フェイト?」 なんで引っ張ったんだろう、疑問に思って声をかけるが、フェイトから返事はない。 代わりに、それまでタオル越しに触れていた手が突然するりと耳を触って、思わず体 がびくりと震えた。 「な、何!?」 「あ、ネギ君、耳弱いんだね」 言いながら、フェイトはタオルそっちのけで僕の耳を触り続ける。優しい、と言う よりは、触れてるのか触れてないのかよくわからない微妙な動きで、耳の輪郭をな ぞったり優しく揉んだりを繰り返していた。フェイトの指が動く音が嫌でも耳に入っ てしまって、途端、奇妙な気恥ずかしさに襲われる。 「ね、ねえ? 髪拭いてくれるんじゃなかったの?」 「……」 やはりフェイトは答えない。代わりに指は耳をようやく離れ、ゆっくりと首筋に降 りてくる。ぞわ、という奇妙な感覚が背筋を上って、僕はまた、身体を震わせる。 直後、 「うわひゃぁ!?」 「うん、やっぱり耳が弱いね」 至近距離でフェイトの声が響く。突然ふう、と息を吹きかけられた耳はじんじんと 熱を持ち始めたようで、慌てて僕はそこを抑えようと両手を上げた。しかし耳を抑え るより早く、その手はフェイトの左手に簡単に捕まってしまう。 「ふぇ、フェイト!? ね、ねえなんなの! 何がしたいの!?」 「わからない?」 フェイトはそれだけ言うと、僕の頭上で両手をまとめたまま、もう片方の手でする りと首筋を触った。手の後を追うように、すぐ隣にあったフェイトの顔が下に移動し ていく。唇が微妙に触れる距離で首筋をなぞられて、また、ぞわりと奇妙な感覚。く すぐったいようなむず痒いような、その感覚は同時にさっと頬を紅潮させて、僕はう ろたえた。 「わ、わからないって……何の事だよ?」 「わからないなら、まあ、それはそれでもいいけど」 「はぁ!?」 適当な事を言うフェイトの右手は、とうとう鎖骨のラインをなぞるとするりと襟元 に入っていった。え、と声を上げるより早く、ゆっくりと手が胸元に伸びていく。 そこで初めて、フェイトが何をしたがっているのかに気がついた。 (なんで――!?) 疑問は脳内をかすめたが、とりあえず身の安全を、と僕は力の限り腕を振った。腕 は、左手だけとは思えないほどがっしりと掴まれていたけれど、僕は両手。存外簡単 に自由になった両手をそのままに、僕は勢いよく振り返った。 「フェイト!」 びくり、と、フェイトの体が震える。ぽかんとした顔でこちらを見たフェイトを咎 めるように、僕は彼を睨みつける。 「フェイト、何でこんなことするの」 「……」 問えば、気まずげに視線が彷徨う。こんなフェイトを見るのは初めてで、一瞬面く らった僕もまた、気まずくなって視線を逸らした。 「……僕達、友達でしょう」 呟くと、フェイトの息を呑む音。 「……ネギ君、あまり根を詰め過ぎない方が良い」 続けると、フェイトはふいと顔を逸らして背中を向けた。自分の部屋に戻るつもり らしい。 すぐに壁の向こう側に消えてしまった背中を追うように、僕は視線をそちらに向け たまま。「あ……」と漏れた声は彼に届かなかったようで、言葉をつづけることなく 息を吐いた。 (はっきりと、言えばいいのに) それは自分も同じだ、とは思う。僕は卑怯だ。 魔法世界から帰ってから、休みを入れることなく動き続けている自分。少しでも休 めば力を失ってしまいそうな恐怖感と、この感覚は似ている。 (君と離れ離れになる、なんてさ) そうして恐怖から目を逸らし、フェイトからのアクションを待つばかりの僕は卑怯 だろう。 再びキーボードを打つ気にはなれなかったが、それでも僕は緩く頭を振ってパソ コンに向き直った。どちらにしろもう無理だ。今日再び、彼と顔を合わすことはない ような気がした。 「馬鹿だなあ……」 僕もフェイトも。 呟きを打ち消すようにキーボードを強く叩いた。 そうしてそのまま、眠ってしまっていたらしい。 ふと目を開けると時計の針は深夜三時を示していて、真っ暗な部屋の中、起きたは ずみでスリープが解かれたパソコンのディスプレイだけが、煌々と明かりを灯してい た。 「あれ、何で……」 一瞬、何でこんなところで眠っているのかわからなくて、首を傾げる。肩には薄い 毛布がかかっていて、フェイトが一度見に来たのだろうと理解できた。 「起こしてくれてもよかったのに……」 「あんまり疲れてるみたいだったからね。仮眠になればと思ったんだよ」 答えがないと思って呟いた言葉に、背後からそんな声がかかってどきりと肩を跳ね させた。慌てて振り向けば、ぼんやりとフェイトが突っ立っている。 「フェイト」 毛布、ありがとう、とか、それでも起こしてくれた方が良かったのに、とか、色々 言葉は浮かぶのに、どれも声となって吐き出すには至らず、口中に消えていく。意味 なく二度、三度口を開閉した僕に目を細めて、フェイトは緩く息を吐いた。 「……さっきは、悪かったね」 「え?」 「襲ったこと」 淡々とした口調で続けられて、僕は気まずげに視線を下げた。襲った、という自覚 はあるらしい。 「別に、嫌ではなかったけど」 この空気をどうやって打破しようか、考えているうちに、言葉は自然と漏れていた。 「は?」とフェイトの間抜けな声が響いて、それで、自分が何を口走ったのか悟る。 慌てて口を抑えた僕をフェイトが目を丸くして見つめていた。視線が恥ずかしくて身 体ごと向きを変える。 「や、あの、別に、そ、そういうわけじゃなくて……っ!」 「……どういうわけだい?」 誤魔化そうとすればするほど、フェイトの顔に笑みが広がっていくのがわかった。 ああくそ、何であんなことを口走ったんだろう。 内心舌打ちしながら、僕は小さく息を吐いた。なんとか動揺を鎮めようとすれば、 襲ってくるのは恐怖に似た緊張感、で。 (言えるわけないじゃないか) 一体何を言うつもりなのか、自分でも未だ正確に理解できていないのに、心中でそ う毒づく。 「ねえ、教えてくれないかな?」 ふと、すぐ近くでフェイトの声が聞こえて、また体が跳ねる。 見ればいつの間にこんな近くに来たのか、フェイトがすぐ横に立っていて、先程同 様、顔の真横で囁くように続ける。 「それとも、僕には教えられない事?」 カッと瞬間的に顔が熱くなる。耐えられなくて耳を抑えた。そのまま立ちあがろう としたら、フェイトの腕が素早くそれを抑えてしまった。 「ネギ君」 「――〜〜っ! わかってるくせに!!」 どうにもいかなくなった僕は、そう叫ぶとフェイトを睨みつけた。最も、赤面した 状態では大して効果はなかったらしく、フェイトは常通りだ。 フェイトは嬉しそうに笑むと、「そうだね、うん、ごめん」と改めて続ける。 「さっきもそう! 今もそう! 順番が違うでしょ!?」 その態度がなんとなく気に入らなくて、吼えるように叫べばフェイトは初めて気が ついたと言う風にきょとりと目を丸くした。 「順番?」 「僕、君から何も聞いてない!」 言えば、「ああ」と納得したような声。今初めて思いついたような声色に、がっく りとうなだれた。 「そっか。だから嫌がったんだね」 「……まあ、たとえ聞いてたとしても仕事の邪魔はしてほしくないんだけど」 「邪魔してたかい?」 「っ! さっきのはどう考えてもセクハラだろ!」 フェイトはくすりと笑みを深めた。僕の前に回り込んで、膝をつく。まるで騎士の ようなポーズだな、思って彼の薄い瞳を見つめた。フェイトは僕の右手を軽く持ち上 げると、今まで見た中で一番の笑みを見せる。 「ネギ君、君を愛しているんだけど、君は、どう?」 瞬間的に、赤みを増した僕を見て、フェイトが嬉しげに微笑んだ。 「……好きだよ、もう」 ぎりぎりまで躊躇われていた言葉は存外すんなり吐きだされ、フェイトは笑みを深 めて「ありがとう」と呟いた。それで、僕が言うに言えず恐怖におびえていた言葉が、 単純な好意の言葉だったのだと思い知る。そうか、僕はフェイトが好きだったのか。 理解できれば簡単で、結局のところ、僕は怯えていただけなのだろう。変化を恐れ ていたにすぎない。仕事の事にしろ、フェイトの事にしろ、がむしゃらに保身に走れ ば上手くいくなんて、そんなこと。 ゆっくりフェイトの顔が近づいたので、今度は抵抗することなく僕は目を閉じた。 触れるだけの優しいキス。 せり上がってくる恐怖心も緊張感も、切羽詰まった感覚がどんどん体外に放出され ていくようで、思う。 (もっと早くこの境界線を抜けれたなら、もっと違う何かがあったんだろうか) それを知るすべはないけれど。 とりあえず、甘い空気のどさくさにまぎれて再びセクハラを始めたフェイトの腕を 甘受しながら、明日の授業をどうするか、僕は思案を巡らせた。 THE END 眩無 アズさんからいただいたフェイトネギですv 眩無さんのサイトでやっていた10000HIT(今更ですが、 おめでとうございますv)企画で、「『押しかけ設定』で、ネ ギ君にセクハラするフェイト」とリクエストさせていただいた ところ、こんなに素敵なものを下さいましたvvv うふふふふvvv(←怪しい・・・) フェイトってば、もう(にやり) 堪能させていただきましたvありがとうございましたv 本編の続きも楽しみにしてますので、頑張ってくださいね(^^) UPが遅くなってしまい、すみませんでした;;![]()