Grace





 		立ちのぼる紫煙が空へと消えていく。

		 点けたタバコを口にするでもなく、ただ、その煙の消えていく様を
		ぼんやりと見つめる。

		 師匠の気に入りだったタバコを吸い出したのは、いつ頃だったか。

		 記憶を辿れば、簡単にその原因を思い出す。

		 ああ、そうだ。アスナ君にせがまれて、仕方なく口にするようになっ
		たのだった。

		『タカミチ、タバコ吸ってよ。落ち着く…。』

		 封じ込めた記憶の中、それでも師匠の存在を微かにでも覚えていた
		のか、当時はあれほど嫌っていたタバコの煙を求めてきた。求められ
		るまま、仕方なく吸い始めたタバコは、今では、自分になくてはなら
		ないものになってしまっている。

		 皮肉なものだ。

		 ゆらゆらと立ちのぼる紫煙を見つめ、苦笑する。

		 最初は、確かにアスナ君にせがまれて、だった。けれど、いつでも
		止められたはずの行為を、結局今日まで続けているのは、自分の弱さ
		ゆえ、だろう。

		 タバコの煙に安らぎを求めているのは、僕のほうだったのだろう。
		現状を見れば、それは明白だ。

		 「体に良くない」と、分かってはいても手放すことが出来ない。そ
		れは僕の弱さだ。

		 火を点けるだけで吸うともなく、ただ見つめていたタバコは、大分
		小さくなってしまった。それを指で揉み消して、灰皿に置く。そうし
		てまた、新しいタバコに火を点けた。

		 1本はそのまま灰皿に、もう1本は口にし、ゆっくりと吸い込む。
		 吸い込んだそれは、ゆっくりと体に沁みていく。その感覚が心地良
		くもあり、また、切なさと後悔をも同時に知覚させる。

		 見上げた空の遙か彼方、遠い異国に師匠の亡骸がある。

		『さあ行けや。ここは俺が何とかしとく。』

		 言われるままアスナ君を連れてその場を離れた僕達に、師匠の本当
		のその後を知る手段はない。だから、厳密に言えば、あの場所に師匠
		の亡骸が本当にあるのかさえ分からない。けれど、生きてはいないこ
		とだけは分かっていた。

		 その瞬間を思い出し、溜め息と共に煙を吐き出す。

		 何も、出来なかった。

		 未熟な自分では、何の役にも立たなかった。

		 あの時の自分に出来たのは、ただ、師匠の最後の言葉を、約束を守
		ること、アスナ君を無事に日本へ連れて行き幸せにする、そうするこ
		とだけだった。

		 多分、その約束だけは守れたのだと思う。

		 あの頃とは違う快活な笑顔を見れば、それは容易に判断できた。

		 けれど――――。

		 紫煙はゆっくりと立ちのぼり、空へと消えていく。

		 ゆらゆらといろいろな色を織り交ぜながら。

		 「最後の一服だ」と告げ、ゆっくりと吸い込んだ煙に満足げな表情
		を浮かべた師匠。

		 口の端を歪めて笑うその表情からは、少なくとも、「後悔」の二文
		字は見えなかったように思う。

		 けれど、それは本当にそうだったのだろうか。そう思いたくて、自
		分の都合のいいように見ていただけではなかったのだろうか。

		 あのような場所で、そう、その最後を見取り、亡骸を弔う人すらい
		ない状況で、本当に「後悔」せずに逝くことができたのだろうか。自
		分の運の悪さと、弟子の未熟さを呪いはしなかったのだろうか。

		 ……いや、違う。師匠はそんな人ではない。

		 あの時僕が「満足そうな表情を浮かべている」と思ったのならば、
		きっと、そうなのだろう。尤も、真実を知る術はないけれど。

		 寧ろ、「後悔」をしているのは僕のほうだ。

		 あの時の僕が今の力を持っていたら、もう少しは役に立つことが出
		来て、あんな所で師匠を亡くすことも、もしかしたらなかったかもし
		れない。ナギやアルにしても、あんな風に離れることにならなかった
		かもしれない。それこそ、違った今があったかもしれない。

		 もしあの時の僕に、もっと力があったら。

		 何度も繰り返す考えは、しかし「もし」でしかなく、現実は既に帰
		結してしまっている。

		 師匠は多分あの場所で死に、ナギの行方はようとして知れない。ア
		ルは図書館島深部から未だ動けずにいる。僕だけがこうして何事もな
		かったように現実を生きている。

		 当時、一番力のなかった僕だけが。

		 思考に沈んでいる間に小さくなってしまったタバコを揉み消し、新
		しい1本に火を点ける。

		 あの当時自分に力がなかったのは、もう、仕方のないことだと諦め
		るしかないのは分かっていた。

		 振り返っても、過去に戻ることは出来ない。だからこそ、今度こそ、
		己の未熟ゆえの後悔を再びしないために、努力を重ね、今の力を得た。

		 けれど。

		 師匠の亡骸を弔えなかった、それだけは、後悔せずにはいられない。

		 あのような場所に置き去りにしてしまったこと、弔うことも出来ず、
		ただ朽ちていったであろうことを思うと、胸が痛む。

		 自然に帰ったのだと、そう思えれば、少しは楽になれたかもしれな
		い。けれど、あのような状況で別れたという現実が、「後悔」を呼び
		覚まし、そう思うことを許さない。

		 その死を悼み、弔うことが出来ていたら、少しは違っていたかもし
		れない。それが自己満足だということは分かっている。何をしても、
		亡くした人は戻らない。それは十分過ぎるほど分かっている。けれど、
		そうしなければ、人は時に悲しみに押し潰されてしまうのも現実だ。

		 そこまで自分は弱くはないと思うけれど、それでも、墓標もなく、
		共に師匠の死を悼んでくれる者もいない現状に、どうしようもない感
		情が湧き上がるのを止めようがない。

		「……師匠。僕はまだまだ未熟です。あの頃と何ら変わらない。ほん
		の少しだけ力は強くなりましたが、それでも、あなたを超えることは
		まだまだ出来そうにもありません。いえ、一生それは無理なのかもし
		れません。それでも、あなたの最後の言葉、約束だけは守れたと言え
		ると思います。アスナ君は、あの頃とは信じられないくらい、快活な
		子に育ちましたよ。あの笑顔を、師匠、あなたにお見せできないのが
		残念です。」

		 苦笑して、空を仰ぐ。

		「今なら、今のアスナ君になら、あなたの死を受け止めることも、あ
		の当時の記憶を受け止めることも出来ると思います。あなたはこう言
		いましたよね。『記憶のコトだけどよ。俺のトコだけ念入りに消しと
		いてくれねぇか。』と。僕には……それが出来ませんでした。記憶は
		確かに封じ込めましたが、きっかけがあれば、きちんと思い出すこと
		が出来ます。思い出しても、その痛みを乗り越えていけるだけの強さ
		を、アスナ君は手に入れました。そう、僕は思います。だから師
		匠………。」

		 深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

		 無意識に胸を押さえ、まるで吐き出すように言葉を零した。

		「もう、全てを話しても、構わないでしょう?」

		 実際、それがアスナ君にどんな影響を及ぼすか、分からない。けれ
		ど、彼女は強くなった。信頼できる仲間も得た。乗り越えていけるだ
		けの環境は整った。

		 そう思うのは、僕のエゴだろうか。

		 それでも、師匠のことをいつまでも忘れたままでいて欲しくないと
		思う。

		 そう考えれば、やはり、僕のエゴなのだろう。

		 けれど。




		「タカミチ。」

		 不意にかけられた声に肩が跳ねる。驚きを隠せぬまま振り返れば、
		そこには教科書を片手に持ったネギ君の姿があった。

		「……ネギ君……。なぜ、ここに……?」

		「授業の進行のことで、ちょっと相談に乗ってもらいたくて捜して
		たんだ。でも……迷惑だった?」

		 驚きに、眉を顰めたままだった僕に気付き、ネギ君は申し訳なさそ
		うに小首を傾げた。その体を引き寄せ、強く抱き締める。

		 それは半ば無意識の行動だった。

		 けれど、自分の中にあるどんな感情がそうさせたのかなど、考えな
		くても分かっていた。例え一時でもいい、温もりが欲しかったのだ。

		「え?タ、タカミチ……?」

		 突然の行為に驚きを隠せないネギ君を無視し、更に強く抱き締める。

		「タ、タカミチ、苦しい……。」

		「……すまない……。」

		「え?」

		「少しだけ、こうしていてもいいかい?」

		 声は、もしかしたらほんの少しだけ、震えていたのかもしれない。

		 まるで祈るように懇願した言葉に、ネギ君は僕の腕の中、ゆっくり
		と体の力を抜いた。

		「……うん。タカミチがそれで安心できるなら、いいよ。」

		 ふわりと笑みを浮かべた気配。次いでまわされる両の腕(かいな)。
		柔らかな空気が僕を包み込んだ。

		 きっと、ネギ君には分からないだろう。君をこの腕に抱き締めてい
		ることで、どれだけ僕の心が救われているかなど。

		「……すまない。」

		 思わず洩れた言葉に、ネギ君は小さく首を振る。

		「なんで謝るの?タカミチは謝ることなんてしてないよ。そうでしょ?」

		 告げられた言葉に、思わず抱き締める腕に更に力がこもる。

		 腕の中の存在が、僕をとても安心させる。先ほどまでのなんとも言
		えない感情が、ゆっくりと静められていくのが分かった。

		 ネギ君は何も知らない。僕の「後悔」も、アスナ君の過去も、何も
		かも。それ故にそう言ってくれるのだろうと、頭では分かっている。

		 自責と後悔の念は、多分一生、僕の中で消えることはなく、燻り続
		けるだろう。それでも、いやだからこそ、縋らずにはいられない、こ
		の腕の中の温もりに。偶然、神が与えたもうた慈悲に。

		「………ありがとう、ネギ君……。」

		 小さく告げた言葉に、ネギ君はただ黙って僕の背に回していた手に
		力をこめた。





		 END 










		「祈り」という意味の単語を調べたところ、「Grace」という
		単語を発見。しかし、辞書できちんと確認してみると、「食
		卓の祈り」とある。
		これはいかん、と思ったのですが、同時に、「慈悲」という
		意味もあることが判明。(他にも「恩赦」だとか「恩恵」だ
		とかといった意味もある)
		そんな訳で、タイトルは「Grace」に。「慈悲」という意味で
		よろしくお願いします(^^;)
		かなり精神的に辛い時期に書いた話。
		頭の中でぐるぐる回っていた、というか、もやもやしていた
		というか、そんな感じだったので、形にしてみました。
		やや、散文的。
		ガトウさん追悼話みたいですが、ラストがタカネギ風。
		一番書きたかったのは、ラストの部分(苦笑)だったりするん
		ですが、個人的には、ガトウさんの亡骸が、あの後、どうなっ
		たのか気になります。いや、土にかえったんでしょうけれど;
		こういう話を書いていると、やはりお墓って言うのは、残さ
		れた人のためにあるんだなぁと思いますね。