未ダ落チタバカリノ小サナ雫




		 泣いている声が聞こえる。小さな子供がすすり泣いている声だ。

		 最初は気の所為だと思っていた。



		「子供の泣き声が聞こえる」



		 と告げても、花月も雨流も、泣いている子供なんか近くに居ないと応
		え、また、笑師にいたっては、



		「堅物に見えて、けっこう、やるねぇ。コノコノォ〜」



		 と、何やら碌でもない誤解をしてくれたため、最近は声が聞こえても、
		誰かに確認することをしなくなった。

		 それでも、あまりにも哀しいその泣き声は、忘れたころに、時折耳を
		掠めるのだった。

		 そして、この奇妙な体験を幾度か経て、漸く、あることに気づいた。

		 泣き声が聞こえるのは、ある人物が近くに居るときだけだということ
		に。

	





		 その日、俺は、MAKUBEXからの指示を受けて、無限城の外へと出ていた。

		 手に入らないものはない、と言われる無限城では実は手に入りにくい
		『真っ当なもの』――勿論、金さえ積めば手に入らないこともないのだ
		が、市価の数十倍もするのだ――を調達するために来たのだ。

		 ついでに、と姉者に頼まれたものを手に入れたころには、既に大禍時と
		呼ばれる時間で、昼の暑さがまだ冷めきらぬ大気の中に、ひやりとした静
		けさが染み込んでくるのを肌に感じた。

		 以前に比べると格段に治安の良くなった下層地帯だが、人の視力が暗順
		応に対応するこの時間帯は物騒な輩が横行する。

		 そのような輩に後れを取るつもりは毛頭ないし、また、むざむざとその
		ような輩の横行を見逃すつもりもないが、同様に、態と犯罪を誘発するよ
		うな、治安を乱すこともしたくない。

		 個々の危機管理の意識も問題なのだ、とMAKUBEXは言っていた。



		「相手に行動を起こさせる隙を与えてはいけない。それは、気を張って隙
		を見せない、という意味もあるが、もう一つ、自ら危険に近づかないとい
		う意味もあるんだ。尤も、無限城に危険でない場所があるか、というと、
		それは別問題になるんだけどね」



		 冗談まで交えて話すことの出来るようになったMAKUBEXの真意を、俺は汲
		み取ったつもりだ。

		 急がなくてはならないな。

		 そう感じて、足を速めようとしたときだった。

		 また、あの、小さな泣き声が耳を掠めた。

		 闇の気配の増した、路地の奥から、それは聞こえてきた。

		 立ち止まった瞬間、ガサッと手にした荷物が音をたてて、僅かに逡巡す
		る。

		 このまま、無限城へと帰路を辿るべきか、或いは、この声の主を捜し当
		てるべきか――。



		「すまん、MAKUBEX」



		 急いでいるわけではないから、2-3日、ゆっくりしておいでよ、と
		MAKUBEXは言っていたが、今日中に帰るつもりだった俺は、少しばかりの罪
		悪感を覚えながら、泣き声の聞こえてくる方向へと踵を返した。








		 目が見えなくなっても、今はそれほど不自由を感じることはない。

		 小さな音や、風の動き、感覚に触れてくるものが、明瞭に世界を俺に感
		じさせてくれるからだ。

		 勿論、そこにいたるまでには、数々の試行錯誤を繰り返したのだが、
		MAKUBEXを補佐し花月を守るという決意を前にすると、それほどの苦難だと
		は思えなかった。

		 今も、微かに聞こえてくる泣き声を頼りに、一度も立ち止まることもな
		く、足を進めていく。

		 複雑に入り組んだ路地を通り抜けて、風通りのよい、少しだけ開けた場
		所に出た。

		 四方を背の高いビルに囲まれた小さな空間だが、通り過ぎる風に澱みを
		感じない。

		 まるで、世界の全てから忘れ去られたような、清涼だが、どこか哀しげ
		な場所だった。

		 そこに、見知った気配と、鼻の先を掠める煙草の香り、そして、声を殺
		してしゃくりあげる小さな泣き声があった。

	

		「……こんなところで、一人で泣いているのか、美堂?」



		 恐らく、俺が近づいていることには気づいていただろうに、全く気にし
		た様子もなくただ佇んでいたその相手は、少しだけ気色ばんで振り返った。

		 カシャン、という音に、彼が金網に凭れていたことを知るよりも早く、
		苛立ったような波動が、まっすぐに俺を射る。



		「誰が泣いてるって?」



		 直にでも牙を剥いて飛び掛ってきそうな気配に、背が粟立つ。

		 だが、張り詰めた彼の気配から、すすり泣く子供がチラリと垣間見えて、
		闘気に呼応しそうになった自分を戒めた。

		 途端に、相手――美堂の殺気も霧散する。



		「何の用だ?銀次なら、HONKY TONKに居るぜ」



		 言葉とともに、視線が逸らされたのが分かった。

		 彼の瞳が『邪眼』と呼ばれる所以だろうか。その視線は、確実に質量を
		伴っており、それが自分の上にあるのとないのとで、これほどに違うのか、
		と感嘆してしまうほどだ。



		「雷帝の前でも泣けんのか?」

		「……あのなー。さっきから『泣いてる』だの、何だの、グダグダとうる
		せーんだよ」



		 罅割れたアスファルトを踏む小さな足音とともに、近づいてくる気配。

		 そして、重いと感じてしまうほどに鮮烈な視線。

		 吐息を顎に感じて、美堂が背伸びをして俺の顔を覗きこんでいることに
		気づいた。

		 夜の気配を帯びて冷えた空気を、近づいた体温が僅かに暖める。



		「泣いているのだろう、ここが」



		 手触りの良い布越しに、正確に鼓動を刻む場所に触れると、ビクッとそ
		の体が震える。



		「……ふざけたこと吐かしてんじゃねーよっ」



		 やはり、図星だったらしい。

		 俺が聞いていたのは、美堂の心が泣いている声だったのだ。

		 子供じみた虚勢を張る様子に、苦笑が零れる。

		 実際に、未だ未成年だったな、と思うと、自然と腕が伸びて、ポン、と
		彼の頭を軽く撫ぜた。



		「なっ!」



		 慌てて振り払おうとするのを難なくかわして、ポンポン、と子供にでも
		するように、何度も頭を撫ぜるように動いた。

	

		「が、ガキ扱いすんなっ!」

		「子供だろう?まだ、未成年だ」

		「へぇ。大人のオメーがオレを慰めてくれるから、泣けってのか?」



		 限もなく頭を撫で続ける俺の腕を、華奢な掌が掴んだ。

		 頭の上から腕を除けながら、声のトーンが、怒りから嘲りへと姿を変え
		る。



		「大人なら、もっと別の慰め方があんだろ?」



		 声が吐息となって腕を掠め、乾いた唇が、やんわりと掌に押し当てられ
		た。

		 艶めいた誘いの割りには、全く彩を感じないのは、俺を揶揄っているつ
		もりなのか、或いは、子供扱いが、余程彼の自意識を傷つけたか。

		 恐らく、後者なのだろうと思うが、明らかに誘いに乗るはずがないと思
		い込んでいるような様子に、自分にしては珍しく悪戯心に火が点いた。

		 片手に持っていた荷物を地面に降ろして、未だ俺の腕を掴んだままの手
		を引いて、抱き寄せる。

	

		「人の腕の中ならば、泣けるのか?」



		 慌てて逃げようとする体を強く抱きこんで耳元で囁くと、腕の中の体が、
		ふっと温度を上げたのを感じた。

		 髪に染み込んだ煙草の香りが、体温に溶けて立ち昇る。

		 女とは明らかに違う硬さと香りに、だが、不思議と嫌悪は沸かない。

		 そのことよりも、抱擁を通して、美堂の困惑が伝わってくることのほう
		が奇妙に感じられた。

		 このまま身を委ねるか、或いは、殺し合いになったとしても、この手を
		拒むか。迷いが克明に伝わってくる。

		 その中にも、未だ絶えることのない、小さな泣き声を感じてしまい、誘っ
		た言葉の欠片ほども、仕種の中に潤いを見出すことが出来ない。

		 果たして、このまま、誘い通りに抱くほうが良いのか、文字通り、ただ
		抱きしめているだけのほうが良いのか、俺自身も判断がつかずに困惑した。

		 だが、美堂のほうも、そんな俺の気持ちを感じ取ったようで、諦めにも
		似た小さな溜息とともに、体の強張りを解いて、ゆっくりと身を預けてく
		る。

	

		「オレ様が、なんで、泣かなきゃ、なんねーんだよ……」



		 呟きのような声が、囁きほどに掠れ、やがて寝息に変わるまでの僅かな
		時間で、コトン、と腕の中に落ちてくる重みを抱きしめる。

		 途端に、聞こえていた子供の泣き声の代わりに耳に飛び込んでくる虫の
		声。

		 その儚い響きを聞きながら、子供にでもするように、何度も背中を撫で
		て、誰かの腕の中でも泣けない哀しみの深さとは一体どんなものなのだろ
		うと思いをめぐらせた。

		 それを量ることなど、誰にも出来ないことは分かってはいるが……。



		 心に落ちた小さな悲しみの雫が、ゆっくりと波紋を広げていくのを感じ
		る。












		伊藤さまにいただいた十蛮ですv
		このSSに触発されて、十蛮を書きたい!とお伝えしたところ、
		快諾していただけたばかりか、SSまでもらってしまいました(><)
		うきゃーvvv
		ありがとうございます〜vvv
		ああ、十兵衛、男だね(←?)
		伊藤さまのお書きになった十兵衛は、マジでかっちょいいですv
		で、触発されて書いた代物はというと・・・(滝汗)
		あんなんかい!?
		との突っ込み、覚悟しております;
		が、ご迷惑でなければ、貰ってやって下さいませ;
		返品可。です。
		というか、書くと言ってから、一体どれだけ経ってるんだか;
		
		※中沢の書いた駄作には、以下の文字からいけます。

		

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