日々のうた(1) HONKY TONKを発ってから二度目の赤信号。夜もこの時間になれば車の流れは スムーズだ。停止させたスバル360のステアリングに両手を預け、チラリと静 かな助手席を見やる。 乗り込んですぐに、極めてシンプルに配置された装置や計器を一通り説明し てもらったカケルは、内装のそこかしこを指でなぞっていた。 「おもしれーか?」 「‥‥‥うん、古い車じっくり見せてもらうの初めてだから‥‥シートが固い ね」 問いを反芻するようにわずかな沈黙のあと、にっこりと笑って、カケルは右 手をシートに置いた。そのセミセパレート式のシートが二人を隔てず近づけて くれるような気がして、そんなことさえカケルには嬉しい。 「オマエんち、金持ち連中が好きそうな、すげー高級車だろ」 冗談めかした笑みを浮かべる蛮に、カケルはきょとんとして言葉を返す。 「うちの車? ‥‥知らない‥」 「あんまキョーミねぇのか?」 「車種とか値段とかは、別に‥‥でも、運転はできるようになりたい」 蛮の足代わりになってあげられるようにというのは胸の中だけで告げる睦言。 口に出せばおかしなヤツだと笑われるに決まっている。それでもいつもなら地 に着かないくらい軽い心で言ってしまえるのに、いまさら何が重いというのか。 訳が分からずカケルはぼんやりと窓の外に目を向けた。 車に乗って流れていく景色を見るのが好きだ。遠くのものはほとんど動かず 近くのものは目まぐるしく流れていく。時々同じ速度で走る車と並べば周りの 景色が動いているように錯覚できるし、遅い車を抜いて速い車に抜かれて、対 向車がスレスレに通り過ぎて思わず目をつむってしまうような感覚はいくら見 ていても飽きない。 「‥‥コイツがオートマだったら運転させてやってもいーんだけどな」 事も無げに言うのを聞いたカケルはびっくりして振り返る。オートマだった ら、とは先ほど聞かされたAT車とMT車の違いを言っているのだろうか。 (えーと、オートマのほうがマニュアルよりずっとカンタンてことだっけ‥‥) 「これ、やっぱり難しいの?」 「難しーワケじゃねーけどよ、操作がイロイロ忙しーっつーのか‥車体のバラ ンスも悪ぃし‥‥何つってもオレさまカスタムで気難しいぜ?」 悪いことばかりのように思えるのにずいぶん楽しそうに話す蛮は、まるで大 好きな玩具を自慢する子どもみたいだ。そんな戯けたことを考えているときも 蛮の手足は淀みなく動いて、スバル360は夜の都心を滑るように走る。 「そういえば、蛮が車持ってるのって不思議」 「ンだよ、唐突に」 「だって蛮、いっつもお金ないないってこぼしてるじゃない」 肩をすくめて言いながら、毎度この辺で飛んでくるデコピンに備えた。どう せよけられはしないし、よけるつもりもないくせに身構えてしまうのが自分で も可笑しい。 「‥‥コイツはもらいもん。タダ」 蛮の左手は愛おしげにスバルのシフトレバーを撫でただけだった。眼差しや 言葉の柔らかさにあらわれている愛情の深さは、果たして車に向けられたもの か。 「でも、ガソリン代とか修理代とか、駐車違反の罰金とか‥‥あ、それに、免 許取るのってすごいお金かかるんでしょ? 自動車学校通ったり‥」 「車校は行かなかったぜ? 免許取る前から運転できてたからな」 むきになって言い募るカケルに微苦笑を浮かべて、やはり事も無げに蛮が答 える。 「? じゃあ運転‥どこで覚えたの?」 「キョーミあるか?」 「‥‥‥ううん」 年上の想い人のこんな問いは、試されているみたいで素直に答えられない。 「なんだよ、人がせっかく教えてやろーと‥」 「ほんとっ?」 ニヤリ、意地悪く蛮が笑う。 ほら。やっぱりからかわれただけだ。 ため息をついて外に向けようとしたカケルの視線は、蛮の一言で引き戻され た。 「昔‥いっしょに仕事してたヤツに教わった」 その瞳に懐かしむような優しい色が浮かぶから。 (さっきの‥‥) あれはその人への愛情なのだと、気付いてしまった自分が恨めしい。 (‥わかんないほうがよかった‥‥) 気付かぬままでいれば。 いつまでも無邪気に会話を続けられたものを。 (あーあ‥せっかく二人きりになれたのに) 助手席のガラス越しに見上げれば、眩しいくらいに光る満月。 同じ月を見て蛮はその人のことを思い出すのだろうか。