日々のうた(2)




		「運転、したいのか?」

		 愛用のタバコの煙をたっぷり吐き出して、その人は聞いた。



		「‥‥おしっ。じゃ運転席乗れよ」

		「ちょっと邪馬人!」

		 喜ぶ声と非難めいた卑弥呼の声が同時に返ってきて、邪馬人はちょっと困っ
		たように眉を顰めた。

		「まぁ‥運転ヘタなヤツは女にもてねーし」

		「兄貴は運転上手くても全然もてないくせに‥」

		「何だ妬いてんのか? にーちゃんは卑弥呼イノチだぞっ!」

		 がばーっ。抱きついて頬擦る邪馬人にぼすっと鈍い音のボディブローを決め
		てから、卑弥呼は嬉しそうに照れ笑いを浮かべる。


		 そんな兄弟のスキンシップを、いつも一歩離れたところから見ていた。

		 楽しいのに寂しい。邪馬人は気付いていただろうか。


		「こいつ器用だからな。できるんじゃねーの? 覚えといて損はないし」

		 蛮の細い首に腕を回して、邪馬人はコツンと頭を叩いた。

		 痛ぇ、なんて抗議の声は聞いちゃくれない。

		「蛮が運転できるようになったら自分がラクそうだとか思ってない?」

		「‥‥卑弥呼。少しはおにーちゃんを信用しなさい」

		 すかさず炸裂した乱暴な妹の回し蹴りをしっかりくらいながら邪馬人は笑う。


		(兄バカ‥‥)


		「蛮も! 素直に運転席座ってんじゃないわよ! できっこないでしょ!」

		「できる‥‥と思う」

		「何を‥根拠に言ってんのよ‥‥」

		「いつも邪馬人の運転見てるし、オレ天才だし」


		 開いた口が塞がらない。正にこんな時に使うんだろう。

		 卑弥呼はその口で大きくため息をついて車から離れようとした。

		「あたしは乗らないから」

		「‥‥よし。俺たちはここで待ってるから、存分に乗ってこい」

		 同じように遠ざかろうとする邪馬人の耳を、卑弥呼は手を伸ばして思いきり
		引っ張る。

		「バカ! 兄貴は助手席でしょ! ちゃんと守ってくれなきゃ‥」

		「卑弥呼‥‥なんだかんだ言っても蛮が心配なんだなぁ」

		「大事な『足』 なんだからね! 絶対、死守しなさいよ、この車!」



		「‥つーわけで、お手柔らかにな」

		 助手席に座った邪馬人がドアを閉めたと同時に発進した。

		 見様見まねで覚えたギアチェンジも意外と好調だ。

		「スピード出し過ぎじゃねぇか‥」

		 さすがに、と言いかけた邪馬人が、くんっと加速したトヨタスポーツ800の
		シートに押し付けられる。

		「おい蛮! ブレーキブレーキ!」

		
		 綺麗な摩擦音を立てた邪馬人の愛車は、カウンターをあてて、完全にターン
		する前に停止した。駐車場のフェンスまでギリギリ3cmを残す状態で。


		「邪馬人のマネ」

		「オマエな‥‥‥」

		 助手席から、らしくない弱々しい声が返ってくる。

		「ちゃんと止まっただろ?」

		 ふっと笑って、邪馬人は落ちそうだったタバコの灰を振り落とした。


		 ねぐらへの帰り道、卑弥呼はやたらと悔しそうだった。

		「‥‥あたしだってオートマのならきっと、運転できるのに‥」

		 邪馬人はシフトレバーを撫でながら微笑んだ。

		「卑弥呼、車はマニュアルだぜ?」

		「難しいばっかりでいいことないじゃない」

		「んー‥そーだな‥‥運転してるっつー実感がな。手足の動きがダイレクトに
		コイツにつながってるって思えて、すげ楽しいし面白ぇ‥」

		 子どもみたいにはしゃいだ顔で今度はステアリングを撫でる。


		「‥楽しくも面白くもなくていいわよ、ただの足でしょ」

		 ますます拗ねた口調で卑弥呼は外を向いてしまう。

		「卑弥呼はお子サマだからわかんねーんだよ」

		 後ろからからかうように口を挟めば途端に勢いを取り戻して反撃される。

		「なによ蛮だってまだコドモのくせに!」


		「俺、ぜったいマニュアルの免許取るからな。邪馬人、運転教えろよ?」

		「あたしもマニュアルにする!」

		 助手席と後ろから同時にシートを揺さぶられて、邪馬人はわざとしかつめら
		しい顔で言った。

		「まぁ当分は卑弥呼も蛮も、大人しく俺の車に乗ってなさいってことだな」

		 盛大なブーイングが返ってきても、やっぱり邪馬人は笑っていた。



		(そうだ‥今はまだ‥‥俺に、守らせてくれ)

		 フロント越しに見上げた夜空には眩しいくらいに光る満月。

		 思い出を、残さねばならない。

		 温かい日々を。残されるこの子らに。