秘め事の一夜  ― 1 ―







		 珍しい気配に足を止めた。

		 高層ビル街のその谷間に、彼の人物は蹲るようにして座り込んで
		いた。一人で。

		 珍しいこともあるものだと、少なからずの驚きを隠せない。

		 自分の記憶では、まず別々だったことがなく、「常」と言っても
		大袈裟ではないくらい、彼らはいつも一緒に居たからだ。

		 しかし幾ら仲が良いとは言え、時には一人になりたいこともある
		のだろうと、思ってもみたが、そのような雰囲気ではないのが窺い
		知れて視線を外せなくなる。

		 いつもの彼からは想像も出来ないほど頼りない気配。

		 常に彼のことを考えているからこそ気がつけたであろう、それほ
		どにそれは弱々しいとさえ言える気配だった。

		「…………。」

		 暫し観察し、そうして徐に歩を進める。

		 すぐ目の前まで来ても、彼は何の反応も示さなかった。

		 普段の彼であるならば、まず有り得ない反応だ。どれほど殺気を
		抑えたとしても、鋭敏な彼はすぐに私の気配に気がついて、そうし
		てその美しい顔に不快の念を浮かべた。

		 だが、今目の前にいる彼は違った。

		 その弱々しい気配といい、私の気配に気づけないことといい、い
		つもの彼からは想像も出来ないほど何かに追い詰められているよう
		だ。

		 ―――― 一体何に?

		 彼ほどの人物を追い詰める何かとは何なのか。

		 興味に、抑えていた殺気を滲ませてみる。

		 それにようやく彼はゆるゆると顔を上げた。そうして私を認識し、
		いつものように不快を露に顔を歪ませる。

		「赤屍……。」

		「こんなところでお逢いするとは奇遇ですね。銀次くんはどうしま
		した?一緒ではないようですが。」

		 笑みを浮かべてそう問えば、一瞬表情を曇らせ、そのまま俯いて
		しまった。

		「美堂くん?」

		「……用がねぇならほっといてくれ。テメーの相手をしてやる心境
		じゃねぇんだ。」

		 俯いたまま声を尖らせる美堂くんに、先から感じている不審が募
		る。

		 やはり彼らしくない。

		 そのように言ったところで、「はいそうですか」と引き下がらな
		いのは彼とて知っているはず。私が彼との死闘を望んでいることを、
		そのための機会を常に窺っていることを、誰よりも良く分かってい
		るのだから。

		「……妙ですね。いつものあなたらしくない。」

		「……うるせーな……。ほっとけって言ってんだろ?」

		 僅かに顔を上げて私を睨み付けたその瞳が、潤んでいるように見
		えるのは私の目の錯覚だろうか。それとも。

		 そう思って良く見れば、彼はただそこにしゃがみ込んでいるだけ
		だと言うのに、匂い立つような色香を滲ませていた。
 
		 微かに上気した頬、濡れたような唇、潤んだ瞳。

		 まるで誘われているかのような錯覚を覚えずにはいられない。そ
		の衝動のまま思わず伸ばした手が、彼の耳元に触れた。

		「…………っっ!」

		 微かな声を上げ、途端肩を竦めた彼に、胸の奥で脈打つ何かを感
		じる。

		 この世に生を受けてから、ついぞ感じたことのない欲求。欲望と
		いう名の情欲が、私の中で頭を擡げる。

		 彼が、欲しい―――――。

		「触んなっ!」

		 思わず返してしまった不本意な反応を恥じ、頬を朱に染めて壁際
		に後退る彼に、一歩、また一歩と近づく。

		 獲物を追い詰めた狩人よろしく喜悦の笑みを浮かべる私に、彼の
		表情は恐怖の念を滲ませ始めた。

		 らしくない彼の表情に、どうしようもなく嗜虐心が刺激される。

		 今や完全に壁に追い詰められた彼に、私はゆっくりと笑いかけた。

		「そんなに怖がらないでください。何も捕って食おうという訳では
		ないのですから。それとも、それがお望みですか?」

		「な!?んな訳ねぇだろ!!」

		 強がりに声を荒げる彼が可愛くて仕方がない。

		 この手に抱いたらどんな風に乱れるだろうか?鳴く声は?きっと、
		それは甘露の如く甘く、私の耳を擽るに違いない。

		「気が変わりました。」

		「?」

		 突然の言葉に、美堂くんは首を傾げた。

		 年相応のその仕草も、今の私には媚薬にしかならない。

		「あなたを殺すのは止めにしましょう。その代わり……。」

		 反射的に身構えた彼に残酷に笑いかける。

		「私を楽しませてください。」

		「!?」

		 彼が行動を起こすより先に、私の唇は彼の唇を捕らえていた。

		「……っっ!?」

		 深く、口内を蹂躙するかの如く口付ければ、それだけで震える細
		い体。それを逃れられないように深く抱き込む。

		 想像していた抵抗はほとんどなく、ただ体を震わせて、彼は私の
		口付けを受け止めていた。

		 どれだけそうして唇を重ねていただろう。

		 ようやく口付けから解放してやれば、完全に腰の抜けてしまった
		彼の体は、力なく崩れ落ちた。それを、腰を抱いて立たせてやる。

		「は…ぁ………。」

		 苦しげに荒い呼吸を繰り返す。

		 縋り付くように私に身を預けている彼の姿はとても新鮮だった。

		「テ……メ……何す……あっっ!」

		 潤んだ瞳を向けるそのタイミングに合わせ、彼の首筋に軽く噛み
		付く。

		 途端洩れる嬌声は、想像通り甘かった。

		「は…なせ……っっ!」

		「言ったはずですよ?私を楽しませてくださいと。」

		 耳元に囁きかければ、それすらも刺激になるのか、彼は肩を竦ま
		せた。

		 感度の良さに、思わず笑みが洩れる。

		 腰を深く抱き込んで、そのまま形の良い双丘に指を滑らせ布越し
		に秘部に触れる。途端、彼は体を硬直させた。

		「ああ、ここが良いんですか?」

		「ち…ちが……っっ!」

		 慌てて否定するが、もう遅い。そのままゆうるりと力を込めれば、
		彼はたまらずに私に縋り付いた。

		「や…め……っ。」

		「……このまま入れてみましょうか?」

		「あ、赤屍っっ!?」

		 私の言葉に弾かれたように顔を上げると、彼は悲鳴にも似た声を
		上げた。それに笑いかけて。

		「冗談です。どうせなら誰の邪魔も入らないところであなたを感じ
		たいですからね。おとなしくついて来てください、美堂くん。」

		「ふ、ふざけ…っっあっ!」

		 顔色を変える彼に、宛がっていた指にさらに力を込めれば、途端
		息を飲む気配。

		「それともここで、のほうが良いんですか?」

		 笑いを含んだ声で問えば、唇を噛み締めて俯いてしまった。

		「可愛らしい人ですね。……安心してください。このようなところ
		であなたを抱く気はありません。折角ですから私の家にご招待しま
		しょう。」

		「!?」

		 弾かれたように顔を上げた彼に笑いかる。そのまま彼を抱き寄せ、
		表通りへと歩を進めた。

		「は、離せ、赤屍っ!」

		「ダメですよ、美堂くん。言ったはずです。楽しませてもらいます
		よ、と。何度も言わせないでください。」

		 笑いを含んだ声で耳元に囁けば、彼が息を飲むのが分かった。

		 どうやら想像以上に刺激に弱いらしい。

		 彼の可愛らしい反応に笑みが深まる。

		 逃げ出せないよう腰をしっかり抱き締めて表通りに出る。そうし
		て、タイミング良く通りかかったタクシーに強引に押し込めてし
		まった。

		 私が乗り込む際、そのほんの少しの隙をついて、彼は反対側のド
		アから逃げ出そうとした。が、それを許すはずもなく、あっさりと
		腕の中へ収めてしまう。

		「往生際が悪いですよ、美堂くん。」

		「ち…くしょ……っっはな…せっっ!」

		 弱々しくも抵抗し続ける彼に、自然と笑みが深まる。

		「いい加減諦めてください。あまり抵抗するようなら、ここであな
		たを抱いてもいいんですよ?」

		「なっっっ!?」

		 囁かれた言葉に絶句する彼。羞恥に、頬は紅を差したように紅く
		染まり、なんとも言えない色香を醸し出す。

		 一瞬彼の抵抗が緩んだその隙にタクシーを走らせ、逃れられない
		状況を作ってしまう。今の彼ならば、さすがに走っている車から逃
		げ出すことは出来ないだろうと、そう判断出来たからだ。

		 私の今いるマンションは、ここからそれほど離れていない場所に
		ある。そのためものの数分で目的地には着くが、その数分間ですら、
		私は彼を抱き寄せ、決して離しはしなかった。腰を抱き、くすぐる
		ように耳元に唇を寄せ、そうして彼の恥辱に耐える姿を思うまま堪
		能する。

		 この腕の中に抱いている細い、だが確かな存在が、私を煽り立て
		て止まない。口惜しげに目を閉じ、唇を噛み締める姿もまた、ひど
		く魅惑的だった。

		「……な…逃げねぇから……い…加減…離せよ……。」

		 それでも何とか逃れようと、震える声で懇願する彼の姿。

		 常とは違ったか弱さを滲ませるその姿がまるで誘っているようで、
		当人の意思を裏切ったその媚態に、笑みを浮かべずにはいられない。

		「ダメです。あなたは油断のならない人ですからね。そのようなこ
		とを言って、私が手を離せばすぐに逃げ出すつもりでしょう?その
		手には乗りませんよ。」

		 噛み付くようにして囁きかければ、刺激に肩を震わせて、きつく
		目を閉じる。

		 彼の一つ一つの反応が、そして刺激に微かに乱れた呼気が、私の
		情欲を駆り立てて止まない。

		 欲望のまま首筋に唇を寄せれば、途端鋭敏な反応が返ってくる。

		「……やめ……。」

		「もう少し我慢してください。私のいるマンションはもうすぐそこ
		ですから。」

		「……お客さん、着きましたよ……?」

		 私の言葉に呼応するように、運転手が躊躇いがちに声をかけた。

		「ああ、着きましたよ。美堂くん。さあ。」

		 開かれたドアから降り立ち手を差し出せば、それでも諦めの悪い
		彼は、なんとか逃げ出そうと抵抗を試みる。

		「困った人ですね。」

		 彼の可愛らしいとさえ言える足掻きに笑みが洩れる。が、あまり
		に諦めの悪い彼に、さすがに腹に据えかねた。

		 それほどまでに私を挑発するのならば仕方ありません。美堂くん、
		あなたの望み通りにして差し上げますよ。

		 薄く笑って車内に戻ると、嫌がる彼をシートに押さえつけた。そ
		うしてそのまま貪るように口付ける。

		「……っっや…ぁっっんんっっっ。」

		 何度も重ねる口付けの、その合間に切れ切れに洩れる嬌声が耳に
		心地よい。

		 初めは引き剥がそうとしていた腕が徐々にその力をなくし、そう
		して完全に抵抗がなくなるまで、私は彼を離さなかった。

		「はぁ……ふ……。」

		 甘く苦しげな溜め息が洩れる。

		 完全に力を失った彼を抱いて車を降りる。もう抵抗する力もない
		のか、彼は私にされるがままおとなしくしていた。

		「……880円です。」

		 困惑気味にかけられた運転手の言葉に一万円札を渡す。

		「お釣りは結構ですよ。」

		 その言葉に、途端喜色が浮かんだ。

		「あ、すいません。」

		「礼には及びませんよ。」

		 受け取った万札をそそくさと仕舞い込んだ運転手に冷めた一瞥を
		向ける。

		 礼には及びません。あなたに、それはもう無用の長物なのですか
		ら。

		 ふわりと舞った血の臭い。

		 その姿形に似つかわしくも下卑た臭気に、一瞬眉を顰める。

		 これが美堂くんであれば、その存在同様、気高く甘美なる香気と、
		その鮮やかにして妖艶なまでに真紅なその色に私を酔わせてくれる
		というのに。

		 やはり彼ほどに私を満足させてくれる存在は稀有なのだと、改め
		て思い知る。

		「……行きましょうか。美堂くん。」

		 腕の中の愛しい存在に向かって笑いかけて、後は振り返りもせず、
		マンションへと歩き出した。