視線その3







		「ねぇタカミチ、どこへ行くの?」

		「先日いい店を見つけてね。食事はそこでしよう。ただ、まだ食事には時間が早いから、それまで少しぶらつこうかと
		思っているんだが、それでいいかな。」

		「うん、いいよ。車で行くの?」

		「ああ、いや。少し飲もうかと思っているからね。飲酒運転するわけにもいかないから、今日は電車で行こう。」

		「うん。分かった。」

		 そんな会話の間も、僕はスカートの裾が気になって、どうしても歩くスピードが遅くなってしまう。それでもタカミ
		チは、そんな僕の歩幅に合わせていつもよりゆっくりと歩いてくれる。何も言わなくても僕の歩幅に合わせてくれるの
		が嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。

		「でも僕、タカミチの車に乗ってみたかったな。」

		「僕の車にかい?じゃあ、次はドライブに行こうか。」

		「うん♪」

		 その言葉に、僕はタカミチに笑いかけた。それに、タカミチも笑みを返してくれる。

		「約束だからね。」

		 そう言ってタカミチを見れば、「もちろん。」と言って笑い返してくれた。

		「ところで……。」

		「何?」

		「その格好で、『僕』は、ちょっといただけないかな。」

		「え?……じゃあ、なんて言えばいいの?」

		「やはり、『私』かな。」

		「『私』!?……で、でも……。」

		「言ってごらん?」

		「あ……え、と………私………。」

		 言い慣れない一人称に、僕は頬が熱くなるのが分かった。それでも、タカミチに言われたとおり、小さく口にしてみ
		る。口にしてみたら、やっぱり恥ずかしくて、頬が更に赤くなる。それに、なんだかとても嬉しそうに、タカミチが笑
		みを浮かべた。

		「うん。そのほうがいいね。今日はこれから、自分のことは『私』と言うこと。いいね?ネギ君。」

		「う…うん………。」

		 そう答えながらも、戸惑いは隠せない。思わず、『本当にそう言わなきゃダメ?』と、言葉にはしないがタカミチを
		見つめれば、タカミチは苦笑しながら、まるで僕をあやすように頭を撫でてくる。

		「僕のほうも、『ネギ君』じゃ不味いか。さんづけは変な感じがするから……呼び捨てでも構わないかい?」

		 自分で言うのもなんだけれど、今の僕は、どこからどう見ても女の子にしか見えない。その僕に対して『ネギ君』と
		呼ぶのはやはりおかしいだろうと、そう提案するタカミチ。それに、僕はこくりと頷いた。

		「うん。いいよ。」

		 今まで、僕はタカミチに呼び捨てにされたことがない。年齢差を考えれば、タカミチが僕を呼び捨てにしていても可
		笑しくはなくて、それどころか、寧ろその方が自然なことだと思う。けれど、出会った当初から、タカミチは僕のこと
		を『ネギ君』と呼ぶし、自分のことは『タカミチ』と呼んでくれと言われている。だから、こういった状況だから、と
		はいえ、タカミチに呼び捨てにされる、というのがどんな感じなのか、興味もあった。

		 でも、興味を持ってしまったことに、僕は直ぐに後悔することになる。

		「じゃあ、今日だけは呼び捨てで。……ネギ。」

		「………………っっ!」

		 低い声で、耳元に囁かれる。

		 その刺激に反応して震える体。

		 くすぐったいような、ぞくぞくするような、そんな何とも言えない感覚に、思わず反応してしまった自分が恥ずかし
		い。恥ずかしさに、頬が熱をもっていることが分かる。きっと今、僕の頬は赤くなっているだろう。

		「タ、タカミチ……っっっ///」

		「ん?どうかしたかい?」

		 僕の反応に、くつくつと笑うタカミチ。

		 からかってるんだ、と分かっても、耳元で囁かれた瞬間に感じた動揺は、中々治まってくれない。今も妙に胸がドキ
		ドキして、タカミチの顔をまともに見ることが出来ないでいる。

		『なんで?他の人に呼び捨てにされたって、こんなにドキドキなんてしないのに、なんでタカミチの時だけ、こん
		な……///』

		 動揺に、きっと顔は赤くなっているだろう。そんな僕の反応が楽しいのか、タカミチの笑みが深まる。

		「名前を呼ばれたくらいでそんなに動揺していたら、周りから変に思われるぞ。……ネギ。」

		「ん……っっ///」

		 名前を呼ぶ時だけ、わざと耳元に囁きかけるタカミチに、僕は繋いでいた手を振り払った。

		「み、耳元で呼ぶからでしょ!そうでなきゃ、大丈夫だよ!」

		 僕が、その、耳が弱いって分かってて、わざとタカミチは耳元で名前を呼んでるんだ。耳元に囁かれたりしなければ、
		こんな風にドキドキしたりなんかしない。と、思う。だからそう言ってタカミチから距離をとれば、僕の言い分に、タ
		カミチが小さく笑う。

		「君がそう言うなら、そうなんだろう。分かった。もう耳元に囁きかけたりしないよ。だからおいで、ネギ。」

		「……っっ。」

		 手をこちらに向けて、僕の名を呼ぶタカミチ。

		 今度は確かに耳元に囁きかけられたものではなかった。でも、タカミチが『ネギ。』と呼んだ瞬間、鼓動が跳ねた。

		『なんで!?』

		 名前を呼ばれただけなのに、なんでこんなにドキドキするのか分からない。自分の感情なのに、なぜこんな風になる
		のか分からず困惑する。けれど差し伸べられた手をそのままにしておくことも出来なくて、結局、僕は自分の感情を把
		握し切れぬまま、タカミチの手を取った。

		 戸惑いを隠せない僕に、タカミチが笑みを浮かべる。

		「さ、行こうか。件のお店は、ここから電車で少し行ったところにある。イタリアンレストランなんだけれどね。ネギ
		も気に入ると思うよ。」

		 どこか楽しそうに話すタカミチ。

		 でも僕はそれどころじゃなくて。名前を呼ばれるだけで落ち着かない感じになる自分が恥ずかしくて、タカミチの顔
		をまともに見ることができないでいた。

		 たぶん、今、僕の顔は真っ赤になっているだろう。

		 タカミチに『ネギ。』と呼ばれる度、妙なくすぐったさを感じる。嫌な感じではないけれど、胸がドキドキして妙に
		落ち着かない。今まで、誰に呼ばれてもこんな風になることなどなかったのに。

		 理由が分からず、自分でも理解不能の感情に、きっとこんな格好をしているからそんな風に感じてしまうんだろうと、
		僕はそう結論づけた。

		『呼ばれ慣れてないから、っていうのもあるよね、きっと。うん。そのうち慣れると思うし、そしたらこんな風にドキ
		ドキすることもなくなるよね。』

		 そう楽観したことを、またもや僕は後悔することになる。